倖福のきっかけをプレゼントします
多分倖せだと思うだけで、何かかわる気がします。
過去何回、あなたは誰に対して、何を誓いましたか?
振り返ってみると面白いもんですよ。
子供の頃から今のあなたに成るまでに、「コラッ」と大人に
怒られてシュンとしながら、「もうしません、ごめんなさい」
とか「二度としません」とか、これなんかも誓うの部類に
入る事でしょうし、スポーツの得意な子は、何かの折に
「宣誓!」とか右手を高らかに上げて叫んだりした事も
あるでしょう。
結婚の時なんかも誓いの言葉とか決められた言葉を
読み上げたりと、誓うという事が、何か最近は本当に
薄らいでいっていく感があるものです。
悪い事をしても、人を傷つけても、困らせても、誓ってと
言ったところでその場しのぎの茶番にしか映りませんね。
多分、耳に入り過ぎているのでしょう。
神に誓ってという人も、“本当にこの人の心の中に、
神(かみ)や佛(ほとけ)が居るのかいな”と思うような事ばかり。
むやみやたらにこの誓うという言葉を使い過ぎているのか、
普段から人々があまりにもいい加減で、目茶苦茶で、
どうしようもない嘘だらけだから誓うを使いたがるのか、
色褪せるのかを考えさせられます。
大昔の日本は、大人も子供も恥を知っていた。
恥ずかしいという心を持ってたものですよ。
人様に笑われる、御先祖様に申し訳がとか、
おてんとう様の下を歩けないとか。
そう、日本人の心の中にエンマ様が居た頃は、
誓うという言葉に、重みも責任も信頼もあったと思うのですよ。
嘘をつくと舌を抜かれるとか言うと、今じゃ確実に、お前の方が
嘘つきだとやられちゃいますね。
雷様だって言ったって、へそ隠すどころか、「ヘエーソー」。
高木ブーさんがあの格好をしても、「オニでしょう」と
言うのですよ。
コワイものが子供の心から消えてますね。
コワイもの、恐れるものが無い状態で大人になると、
もう嘘のつき放題、オンパレード。
ましてあんた、ケイタイ電話が出てからというもの、
待ち合わせに遅れる者供の、なんと多い事多い事。
今までは、5分前10分前には来てた人間も、何とか連絡がつく
ケイタイのおかげで、どんどん身勝手な遅刻者を増産しました。
昔は、ちゃんとその場所でその時間にご挨拶申し上げたのですが、
今じゃ、電話で「オクレマス、ゴメンナサイ」から話が
始まるのです。
まだ会っても居ないのに、変ですよ~ホントに!!
昔じゃ、誠意が無いとか、信用を自分で崩す奴とか、
ダメな人とか言われて相手にもされなくなってる筈なのに、
どういう訳か、今じゃこれが当然で、逆に“ウルサイ!”と
思われてしまうのです。
道理が通じない変な世の中にあっては、道理の1つ、
道徳の1つである、“約束”という誓いの言葉も
風化しちゃうんでしょうか?
“誓う”という字には、折るという字が入ってます。
その昔に、何かの大事な大切な約束の時に、何かを折った
という事らしいのです。
木の枝とか草とか、矢とかいう説もあります。
チッヒーは矢を信じたいですね。
“人をも殺す矢を目の前で折って、命の安泰を約束したのでは”
と思います。
そういえば、昔、鎌倉時代頃から、神社に戦勝を祈る時に、
矢に祝詞を結びつけて、「勝たせて下さい、勝ったら
これだけの事を神様にします」という様な事を誓って
奉納する習わしもあるのですよ。
誓うって言葉は、そう簡単な心では使っちゃいけないものだと
思うのです。
同じ事を何度も繰り返したり、再婚、再々婚、再々々婚とかって、
どれだけの誓いが嘘である事でしょう。
そんな訳で、誓うという事を、もう一度よ~く考えてみて
下さいね。安易には使えなくなるでしょう。
そして、“使うからには信じるに値する人生にしなくてはね”
と、チッヒー思いますけど、いかが?
「いやされた~い」、多いですね。
流行でしょうし、「なぐさめられたい~」ってのと
一緒だと思います。
なんかこのいやし、本来はアイロンでシワクチャの布をのばし
平らにしてゆく様に、心のシワをアイロンがけの様にして、
平らな、スベスベのよい状態にする意があるらしいのです。
「フン、アイロンが昔あるわけないじゃん、
チッヒーのウソツキ」という人も居るでしょう。
しかし、“火のし”という道具が大昔からあったんです。
クリーニング屋さんや、着物を仕立てる所に行ったら、
“火のし”という炭を入れる道具がちゃんとアリマスので、
・・・ナニカ?
(アッ、結局“火のし”を書いちゃった。アイロンで
パッパと済ませようと思ってたのに・・・。)
だから、心がびろ~んと伸びさえすれば、
ことさら、いやし、いやしと、いやしく追い求めなくても
良いんじゃないのとチッヒーは言いたいのです。
それよりも、自分が人をリラックスさせる様な人になって、
自分の周囲を居心地よくさえすれば、何も、皆、大金
使ったり、人から騙されて、さらに嫌な心にならずに楽しく
生活できんじゃね~のくわいとチッヒーは思うのです。
恋人や嫁や御主人と上手くいかない、浮気で家に帰らない。
それは居心地の悪い空間しか作ってないからだと思うのですよ。
一緒に居るのが楽しくなる。
そんな空気を自分から求めて作っていかないと、
いつまでたっても、人から与えられるだけの無能な人で終わって
しまっては、限られた人生、何ともったいない事でしょう。
自分から、とっても楽しい、リラックスできる空間を
作って下さいよ。
でも、ちょっとマニアックなのはダメかな。
皆が楽しめる事を考えましょう。
何にいやしを求めても自由ですけど、人の迷惑にならない様に、
そして騙されないようにしましょうね~。
そして、自分から進んで今年売られるチッヒーの本を買う。
これもまた、いやしです。
お忘れなく。
人は時に悲しくなります。
心に、トゲが刺さった姿といわれます。
非は否定の意味だけではなかったのですね~。
いつもと違った痛々しい姿の心、それが“悲しい”だそうです。
毎日楽しく過ごしてたのに、何かつらい事、
痛々しい事が来ると人は苦しみます。
前にも書いた様に、困るものです。
大好きな人が死んだとか、会社が倒産したとか、
自分が平素、ある事が当たり前、起こる事が当たり前だと
思った事が、失ったり亡くなったりすると、どうしていいのか
分からなくなって、困ってしまう。
内に篭ると、困るになるんですね。
悲しい時、心にトゲが刺さった時も、
人としっかり接しましょう。
人の言葉や優しい心が、刺さったトゲを抜いてくれるやも
知れません。
1人で悲しまず、自分の有様を人にさらけ出したって
良いのです。
泣きたい時、つらい時に、泣き悲しむ事が出来なくなって、
生きているとは言えません。
“つらい事”“楽しい事”“苦しい事”“悲しい事”、
これらの現実をしっかり感じ受け入れる事が、
“生きる”“生きている”という事なのですから、
悲しくて泣く、涙する事は人の証、恥じる事ではありません。
人前で泣ける心をしっかり持たなければ、
悲しみの心の上のトゲは抜けないものです。
でも、時と場所柄をわきまえる事。
これが人間の証、人物の証となります。
チッヒー、人と人間は区別して見ます。
さらに、人物はもっと区別して見ます。
なぜって、それは、人が見て手本とするべき事を
する人間だからです。
でも本音を言うと、所構わず泣きたいよね。
人は必ず死にます。
焼かれます。
灰になります。
どんな人もそうです。
大好きな人も大嫌いな人も、良い人も悪い人も、
皆、最後は灰になっちゃうんですね~、焼かれればの話ですが。
なぜか人は死の事を考えると、
「ジイさんになって」とか、「バアさんになって」とか、
とっても甘ったれた未来を語り始めます。
何とおろかな・・・。
だってさ、事故で急にとか、不治の病でとか、
殺されたりとか、自殺とか色々あるけど、
いつ死ぬかって事はわかんないんですよっ!!
そんなにのん気に、チッヒーのブログ読んでるヒマも
無いんじゃないのっ!?
でも本が出たら買ってね、オネガイ♡♡♡
とまあ、本当に人はいつ死ぬかわからないんです。
チッヒーも去年運ばれました。
秘書の玉ちゃんにも連絡を入れず、
電話も家に置いたまま、
覚悟してピーポー車に乗りました。
友人がたまたま一緒に居たのですが、
「どうなるかわからんから、ここで帰ってくれ」と
言ったものの、「ついて行く」という事で
病院まで一緒に行ってくれました。
遺言状は毎年書き換えているので、
後は、現金と通帳と身分証と印鑑と、
着替えと短刀をカバンに入れて、
ピーポー車に乗りました。
何か妙に、スッキリした感じが一瞬ありましたよ。
まっ、そんな事はどうでもいいですけど、やはり自分の身に
あれだけの事が起こると、書くべき時、語るべき時に、
伝える事に、前にもまして色々と増えます。
今、日本に、ニートやフリーターやワーキングプアや
マンガ喫茶利用のホームレスが、どれだけ多く増えた事か。
政府も自立支援とか言って、スローガンやらキャンペーンやら
お金の無駄ばらまきで、やっているとは言うけれど、
実際どうでしょう。
さ~っぱりという所が本音ではないでしょうか?
私がよく読む本がマキャベリで、もう大昔の、中学・高校の時の
孫子と並ぶ二大愛読書なのですが、やはり書いてます。
国家に力が無くなる時は、無意味に巨大化した時だそうです。
政治のシステムも複雑化して、何をするにも時間が掛かるとか、
必要以上に国民から財産を奪うと、子供も少なくなって、
人は無気力になるとか書いてますよ。
おっ、話がそれかけ、
そして今の若者や労働者がどうだこうだといった所で、
どこにメスを入れなければいけないかという本質、
これをよ~く知っているのにメスを入れないずる賢い人々が、
自分の不利益になる事を拒み続けているからでしょう。
別に政府や役人だけじゃないんですよ。
子供を見て見ぬふりの親とか教師とか、
社員を正しく導く上司とか、
言う事を聴かない若者だって同じです。
皆、自分から、自分の責任からどっかで逃げてるんですよ。
自分を取り巻く現実を直視できないんですね。
あるニートの女の人、
「子供のままで居たい」「大人は汚い」
「けがれてる」「ずっとこのままがいい」。
チッヒーは意地の悪い質問をしましたよ。
「あんた、今、いくつ?」「後5年でいくつ?」
「後10年でいくつ?」「また10年経ったらいくつ?」
「そいでさっ、その年令の人って世間から子供って見られる?」
「電車とか半額でいいの?」「その年になると何て言われる?」
「・・・お・ば・あ・ち・ゃ・ん」やっと言いましたよ。
現実だって見せなきゃ。
甘えてられるのも、周囲に自分の肉親が居るからです。
何も身寄りの無い人だって頑張ってます。
人は必ずや老いてくんです。
お肉も、脂身は残しちゃうんですよ。
体も弱はります。
フリーターやらニートやらやってる子供、
いえ大人も居るでしょう。
ちょっと自分の現実的な未来を考えてごらんなさい。
また、家族にそういう人が居る人も、皆、甘えてるんです。
不平を言う前に考えてごらんなさい。
まず、この国に戦争が無いという事を幸せと思って
頑張ってごらんなさい。
1日1日の積み重ねが本当にしっかりと確実なものなら、
やがて、「あ~頑張って良かった~」と言える日が
来ると思います。
しかし、決して世の中を恨んではいけません。
どんな事も、自分の生活のあり方、積み重ねの甘さが作った
産物でもあるのです。
誰かのせいにして論争している時間があるなら、
自分の残された時間を、大切に、有効に使う。
それが老いるという事の1つだと思います。
多くの悩みを抱えて人は生きています。
でも自分が生きている証でもありますし、生きてるからこそ
悩みがあるのです。
そして人は何か問題が出来ると、それをすぐに人のせいに
したり、何かの理由を見つけ出して、逃れようとします。
最近、政治家という職業の人がよく、「責任ある政治」とか、
「与党としての責任が」と言って居られますが、一旦、国民の
代表となって天下の政り事を行ふとなったからには、また、
その志があるならば、責任などというものは自然発生するものと
思うのです。
これは、何も政治家だけの話ではありません。
社長には社長の、社員には社員の、親には親の、また子供には
子供の責任というべきものがある筈なのです。
責任は誰にでもあるという事なのです。
要は、なんかの問題があった時に、その対処の仕方が
求められるのです。
政治家には政治家の責任の取り方があり、親には親の責任の
取り方があるのです。
優先順位と、我が身の置かれている所をしっかりと自覚して
居れば、世の中から笑われるような事は無いのでしょうが、
これを間違えると大変な事になるものです。
言って良い事と悪い事もあります。
某大臣は、「選挙に影響が」と言って職を退きましたが、
これなどは、責任の取り方としては後々までの語り種と
なるでしょう。
責任などは誰にでもあるものなのです。
その取り方を知っているか知らないかという事が、人をして、
何と言わしめるかに繋がるのでしょう。
責任を全うしようとした時や責任を感じた時、弱い心の人も
強い心の人も大抵は困ります。
責任云々の他、何かの問題が自分の人生に立ちはだかった時、
人は、老若男女、善人、悪人を問わず困るものです。
困るという字は、通行を妨げる木が路の前にある姿だそうです。
道は、人が自由に行き来をする天下の往来。
言葉も文化も、様々なものが手に入る所です。
そして口で囲まれています。
止められた上に、四方を囲まれているんですね。
本当に困ったもんです。
人は困った時に、恥ずかしいとか、変なプライドから人に
相談をしなくなったり、人のアドバイスすら耳に、いいえ、
心に入りづらくなります。
弱い心、強い心の人は、こういう時に人の意見が、自分の心に
入りづらいのですね。
素直な心を持って、人の忠告を心に入れる事が出来る人は、
その点でとっても幸せです。
心の支えだって、人からの一言で出来るものです。
困った時という難解な時ほど、多くの人の意見に耳を
傾ける時なのです。
困るという現実は、自分が人の意見を聴けなくなった時から
始まるのです。
困る前に、相談をしましょうね。
「反省します」と人は頭を下げます。
「申し訳ございません」と人は頭を下げます。
しかし、下げた頭の先、
その人の目は何を見ているんでしょうか?
「監」、かんがみる・反省するという意です。
水鏡に自分を映して見ている様が、字の起こりとか
(白川先生の本より・・・。みんなで読もう!!)。
原因無くして、結果無し。
陽が出りゃ、必ず陰がある。
夜が明ければ、朝が来るものです。
根本を見て、二度と起こらぬ様にとの事で
頭を下げているのですから、再発って何かシラけます。
何かの目的が本当にあるのなら、
何かの意味があって頭を下げるのならば、
「どうせ汚れた靴のつま先しか見てないのね」と
イヤミな事を言われない様にして欲しいな。
これが人命にかかっている事なら、その人達は浮かばれないな。
小松政夫さんはよく言ってました。
「エラそ~に、エラそ~に」。
知ってるかな?
本当に偉い方は、やはり人とは違うものなんですね。
考え方は違ってるし、行動も違ってるし、言ってる事だって
人とは違います。
人は、人と違った事を嫌う様で、特にこの島国ニッポンは、
違った事、変わった事をすると、異端者扱いです。
「同じ、同じ、人と同じ~~~」という事が好きなんですね。
エコバックも、「皆が持ってるから私も持ちたい~」。
ネットで3万円でも買う人がいるんです。
本当にエコロジーをしてる人って思われたいなら、
フロシキだ、フロシキ!!
おまえらは、大ブロシキばっかりだ、フロシキ使え~っ、とまた
脱線しました。
さて、本線に近付きたいと思います(ジワジワと)。
“まっ、本当に出来たお偉い方は、腰が低くて、しっかりと
道徳を身につけておられて、間違った事は素直に謝って、
人の迷惑になる事や人を苦しめる事を嫌うよ”という事です。
それとは違って偉そうな人は、自分の好き勝手放題、
自分さえよけりゃいい、自分さえ幸せだったらいい、
自分さえ楽しきゃいい、自分さえ面白ければいいと、
人の事より自分の事、我田引水な人ばかりです。
「おごる」という言葉がありまして、「驕」という字でして、
普通には、野生の荒々しい、人の言う事を全く聴かない、
どうしようもない自分勝手な馬の事のようです。
でも、元来の字の形は、高楼という高い建物に木を立てて
(ひもろぎだと思います)神様を招く形だそうで、御神威を
借りて、ただの人間がエラそうにしちゃう事らしいです。
今も昔も、おバカが多かったという事ですね。
人間なんざぁ、あ~た、生まれたら死んで焼かれて灰になって、
どんなに立派な墓石作ったって、百年、二百年経てば、
酸性雨で、刻んだ字も墓石もボロボロになって、誰だか
わかんなくなっちゃうのにねっ!
死んだって、何にも持っていけないのにさっ!!
本当に人の為に、人の役に立っている人は、黙ってても大事に
されるし、尊敬されるのにねっ!
バッジが付いた途端に、「先生」だもんな~。
御神威を借りてエラそうにする人は沢山いるしな~。
あっ、チッヒー、辞書で調べたら、「驕る」には、「欺く」、
「高ぶる」って書いてて、「驕」のつく言葉に、ろくなもんが
無い事を沢山知りました。
少し皆さんにも、お披露目です~。
「驕黠」(きょうかつ)・・・悪賢い
「驕易」(きょうい)・・・人をあなどる。
「驕溢」(きょういつ)・・・分に過ぎる。
等々。
何か、脳裏に焼きついたエラそうな人達の事件性をおびた
ニュース報道の1コマ1コマが、走馬灯の様になったのは、
チッヒーだけでしょうくわ?
しかし驕という字に、こんなにも悪い意味がテンコ盛りとは、
オドロキです。
しかも、全部、これ、あの人の事ね・・・とか、
当てはまるのです。
今も昔も面白いくらいに、という事です。ではまた・・・。
世の中は参議院選だそうで、地震で大変なのに大忙しです。
まっ、残りの議員がしっかりと対応するために選挙の時期が
ずれているのでしょうから、万事、滞りなく行っている筈です。
さて、「一票、一票」と、毎日毎日大変なものでございます。
一票差で当選、一票差で落選という事ですから、本人達は
真剣でしょうなっ。
しかし見ていると、有権者はもう興醒めなんですね~。
しかも、日本が、世界で1番政治が悪い国だという調査結果も
堂々とニュースで流される時代にあって、尚、国民が首を
傾げる道徳感が、あの職業集団にはある様です。
「政治屋」とは、よくぞ言ったものです。
「一票の重み」とか、「清き一票」とか、よくもまあ、1日に
何百回も言ってて疲れないのでしょうかね~。
しかも、票の意味を本当に知っておいでなのか、
“当選してからやっている事からすると、
知らないのでは~っ?”とも思えるのです。
これは、全部の議員とは言いませんよ。
それが誰とも言いませんよ。
でも、皆、自分の心の中で考えて行動して下さいね。
「票」には、“死人を火葬にする様を表し、その火の勢いが
すごいぞっ!”という意があるそうですよ。
また、炎が軽やかに上がる所から反対の意味合いも持ちます。
軽いとかいう感じにとらわれて、“紙きれ”という意味も
持つ様になったそうです。
面白いものですよ。
いや~な議員を、死人同然に火葬の様にするのもあなたの一票、
勢いよく当選させるのも一票なのですね。
当選した議員さんは、一票を紙きれにしてしまわぬ様にして
頂きたいものです。
世の中が良くなるためには時間がかかります。
毎回毎回の、一票一票の積み重ねが大切なんですよ。
だから一票を使って下さいね。
嫌いで嫌いで仕方の無い人や、その人がいる政党に
入れさえしなければ、別な人に入れるという事の積み重ねが、
きっと、よいお仕置きや反省になるのです。
チッヒー、政治家は好きだけど、政治屋は嫌いです。
政治屋に入れずに、政治家たらんとする人をしっかり
見抜く事は大変です。
しかし、人を育てていく、政治を厳しい目と心でとらえて
育てていくという事は、時間がかかってもすべき事です。
あなた方だって、急に大人になった訳ではないのです。
良い事、悪い事の判断だって、時間をかけてつくように
なったでしょう?
“子供を育てる様に、政治を育てていくんだ”という心を
持たなければ、一票が軽んじられ、軽票になります。
軽票とは軽薄なものを表します。
一票の重みを、しっかりと知らしめて下さいね。
チッヒーからのお願いです。
“この日本には、勤労のギムっ!!”というのがあります。
全ての国民は働かなければいけないのです。
しかし、その質や時間や内容は特に決まりが無い様で、
ある仕事場では、「パソコンのキータッチを何回までしか
しちゃだめですよ~」とか「働き過ぎちゃだめですよ~」とか、
でも、とっても高い給料と、とっても安い住宅に住めたりとか、
本当に天国の様な所が、おおむね、
国家の仕事をする人達の所にあります。
本当に素敵な職場です。
世の中の常識をどこに求めるかによって、話の内容が
良くも悪くもなってしまいますが、大人数を占める、国民の
一般企業や商取引の場では、とっても考えられない大事件です。
だって、利益の追求が会社企業の悲しい業でしょうに。
なのになのに、ああそれなのにそれなのに、
国家で仕事をする人があれじゃあね~。
子供もニュースで見てるし、知ってるでしょうに。
“昔、孔子がこんな事を言ってた”と本に書いてました。
「どうしてこの国に盗人やら犯罪が多いのだ、孔子。
何とかしてたも!!」
と貴族の問いに対して、
「あんたが不真面目やからしゃぁないでっせ、ほんま
ありえへんわ、自分。皆が知らん思ったら大間違いでっせ。
天下の大盗人はあんたやろが。王様に納める
年貢ちょろまかして、こんなに大きいならはって。
そやから、皆、悪い事しても平気、やらな損々、
お上もやっとる、わしらもやるで~と、こうなりまんのや。
そやからあんたが、一番上の者が、襟を正して生活しなはれ。
それしかありまへんわ、ほんまのところ。」と、
のたまわれて後、この貴族は行いを恥じ、
そして、その国の平和がやってきたとさ、
めでたしめでたし。
労働の労は、勤めるとか働くという意味の他に、
“いたわる”という意味もあるそうです。
働くものを労わる心無くして、経営も家族も国家も
成り立たないのでありますよ。
国家は、公務員をもっといたぶりなさい。
そうすれば、国民との平等に近付く筈です。
人は甘やかすとろくな事が無いという良い手本です。
その昔、公僕という言葉がありました。
僕は、“しもべ”という意味です。
プロイセンのフリードリッヒ大王は、封建制度のヨーロッパの
中にあって、声高らかに宣言しました。
「君主たるもの、国家一番の下僕たり」と、ヨーロッパの中で
1番最初に拷問を禁じた君主です。
全国のピーポー君とは違います。
山は、上に登れば登るほど自分の立ち位置が狭くなります。
頂上はどうでしょう。
とんがった山の上は立ってるだけで精一杯です。
踊る所すら無いでしょう。
自分達がエリートで人より秀でている、思うのも言うのも
どうぞご勝手にという所ですが、上を極めれば極める程
自由な事は無くなり、身動きが取れないものという事を
良く知るべきだと思います。
チッヒーだって、やろうと思えば色んな事が仕事になりますが、
恥を知るゆえやりません。
最近の立身出世をしている人達を見てると、恥ずかしいという
言葉が、その生い立ちや教育の中に無かったのかなと思う人が
多い事多い事。
日本は美しい心を持った人がトップに少なくなった事、労働者の
血と汗の上に自分が居るという事を、本当に忘れてますね。
これでは労働する者は、労われるを感じる事は無いでしょう。
(癒しを求める原点か?)
今まで働いて来て国家を支えた国民(老人)もしっかり
労われない様では、国家としての条件(会社としての条件も)を、
自らの手で放り出しているのと等しい気がするのです。
変わって欲しいものです。
労働者は、どんな事でも自らの命を削って働いてます。
“労わってくれる国家に早くなって欲しい”と
心底願うものでありますよ、トホホ。
最近、子供の図に乗った犯罪がまた目立つのです。
子供だけではなく大人もなのです。最も大きなところでは
社会保険庁なのです。
立派な肩書きが名刺にある人が、問題が起こって人々が
困っているのに逃げちゃうんですね。
昔、島津義弘という人は、自ら先頭に立って、
どんな時も人を引っ張っていった。
そのリーダーシップを学ぶとよいでしょう。
人が命を捨ててついて来るには、平素の心構えと、
大事な時に逃げない心です。
そのために、トップは立派な肩書きがあるんでしょうけど。
よく耳にする言葉に監督責任というものがあります。
「監」には反省という意、
「督」には見る・正す・戒めるとあります。
子育ても、政治も会社も、1人1人が戒めや、正すという事を
忘れてはいけないでしょうね。
督を使った言葉に、「督励」という言葉があり、厳しく、人を
温かい目で見て、アメとムチで人を育て導く事だそうです。
やっぱり、気付いた人がやらなければいけないのでしょうけど、
トップに立つ人が見本・手本となってくれた方が、これからの
世をになう子供達にとっても、失ってはいけないものを守る、
良いキッカケになるのでは?と、チッヒーは思うのです。
さて、まだ悲しい事が世の中に沢山ありますね~。
このブログを読んでいる人達の年令の幅が、実に広いという事には
驚きましたけど、たまにはと思って、皆に当てはめられる様に
書きます。もし「いいな」と思ったら、誰かに聴かせてあげて
下さいな。
「なぜ、いじめとかがあるんでしょう」と考え込んでしまいます。
皆、楽しく生きたいって願っている筈なのに。
小さな所では、大きな所ではと、区処せずに考えてみましょう。
国同士の戦争も、子供のケンカも大人のケンカも、人間、
同じ人間が行っているものなんですね。
よく「プライドのぶつかり合いだ」なんて言う人が居ますけど、
そんなモノのぶつかり合いで、傷ついたり、死んだり、殺し殺され
悲しみにくれるのですから、たまったものではありません。
戦争を決定した人が、いやバカ者が最前線に立って戦う事も無く
後方から作戦を出して、自分は最も安全な所に居るのが
今の戦争のやり方でしょうか。ヒキョウ者が大将なのですね~。
昔は、大将が矢面に立って戦ったもんですよ、洋の東西を問わず。
まっそんな事はさておき、よく使われる「プライド」という言葉。
皆さんは何を連想するでしょう。
きっと私と正反対のものを連想しているのではと思います。
私はプライドとは、とってもデリケートで、純粋で、無垢で、
壊れやすく、傷付きやすい、ガラス細工やアメ細工の様な物と
いうとらえ方をしています。
“プライド”ってともすると、ものすごく硬くて、何かを
はねつけたり、芯があって強くて、何か大切なものを守ったり
保護している様なとらえ方の人のが多いのではと思うのです。
でも、本当のプライドって、誰もが持っている生身の人間の
弱さや恐れや、か細くて壊れそうな、愛らしい、美しいものだと
思うのですよ。
誇りという人も居ます。でも誇りは、自慢や自己主張の
行き過ぎにも通じてしまう所がありそうです。
むしろ人としての、犯す事も犯される事も
(この犯すが、侵すは、もっとこわいですが)あってはならない
人権ではなかろうか。「生きるという事」、命をまっとうする
権利ではなかろうかと私は思うのです。
前に、「生きるとは」という事を書きました。人は必ずや
生まれた後に死を迎えるものです。どんなに不自由なく
生活しようが、やがてはこの世から消えてしまうものですよ。
どの様な亡くなり方をするかは、その人その人違いますが、
生きている間に意義ある時間の使い方をしなければいけないと
思うのです。
「生きる」という字は、その昔、大地から草木がニョキッと出て
成長していく姿をとらえて作られたそうです。
木を取り上げて話をいたしましょう。
年輪から、昔何があったのかを知る学問があるそうで、年輪と
年輪の間が広いか狭いかで、その時の1年の様子を
知り得るという事です。ただ天に向かい伸びているだけでは無く、
しっかりと寒い時、暖かい時を木は感じとり、我身の内にその様子
有り様を刻み込んでいるのですよ。
この様に私は、生きるという事は何かを感じながら、死ぬまでの
間を過ごす事。そして、良い事悪い事の中から生きていくための
学びをしっかりとする事だと思うのです。
生きるという事は、つらい事、楽しい事、半分ずつの人生を、
両方しっかりと受け止めて感じる事なのですよ。
そして、やはりつらい事よりも楽しい事を増やすために、努力し、
工夫し、考え、行動をするのが、人であろうかと思うのですね。
先ほど、プライドの話を書きましたが、
「人様が生きる権利を犯してはならない」。これは、人に苦痛や
嫌な思い出を与えてはならないという事にも置き換えられます。
戦争もそう。競争も、いじめも、国家であろうが個人であろうが、
大人だろうが子供だろうが、やって良い事と悪い事が
ある筈ですよ。それがわからん人は、「プライドが無い」という
分類になると思うのです。「厚顔無知の鉄面皮」という、
恥知らずな自分勝手な自分さえ良ければという方々です。
本当、最近増えました。とほほです。
“小さい子というか、成人していない子供も読んでいるブログだ”
という事を踏まえた上で、皆にわかるように書きますが、
皆、楽しく平和に暮らしたいのは一緒なのですから、
人様にも自分にも、嫌な、つらい思い出を与え残す様な
生き方はやめましょう。
“人なんて、そもそも弱いがゆえに社会を作って群れているんだ”
という事でしょう。皆弱くて傷付きやすいのです。自分の身の
回りから、どうすれば楽しく生活出来るか、やってみて下さいね。
何のために人は言葉を考えたという事が、きっとわかったら、
争う事も減るのではと思うのですよ。
夕食の後に
「いつもありがとう、ごちそうさま、おいしかったです。」
作った人は、どんなに幸せな心になるか。
「いつも遅くまでお仕事、ありがとうございます。」
こんな当たり前の言葉が、今すっごく新鮮に聞こえるならば、
それはもう大変な事です。当たり前の感謝の心が、
当たり前では無くなっているのですから。
まっ、今からでも遅くないと思います。それぞれの出来る所から、
少しずつ変わっていけばよいのではと思うのです。